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雷電逸話

雷電VS雷電?!
「雷電」を四股名とした力士たち

大相撲史上には何人かの「雷電」が存在した。

電電灘之助(明石藩力士) 元禄(1690年代)の雷電源五衛門にはじまり、宝永(1710年代)に雷電源八(長身の美男で女性に大人気)、寛政(1750年代)には雷電瀬平、雷電音右衛門、宝暦(1760年代)に雷電民之助、そして松江藩お抱えの雷電為五郎。この為五郎の活躍で雲州力士の看板となった四股名を雷電為右衛門が継いだのだ。寛政(1750年代)には雷電灘之助(明石藩)がおり、3度の雷電対雷電の取組が実現。為右衛門が1勝1預1無勝負の戦績だった。幕末から明治初期には雷電震右衛門が活躍。四股名を名乗る際に松平伯爵家へお伺いを立てた。その後、雷電を名乗った力士は無く事実上の「止め名」とされている。

<電電灘之助(明石藩力士)>

2つの「鐘」

横綱小野川との因縁と赤坂報土寺梵鐘事件

咲柳山 報土寺 雷電梵鐘の図 大関になった雷電は、横綱小野川を投げ飛ばしてしまう。しかし、お抱え藩同士の体面や小野川の名誉から、物言いが付き、結局この一番は行司の勝負預かりに。
 ところが、息子が敗れたと思った小野川の母は、そのことを苦に自害してしまう。心を痛めた雷電は文化11年(1814)3月に小野川の母の追善供養にと、焼失していた赤坂報土寺の梵鐘と鐘楼を寄進したと伝えられている。
 しかし、その梵鐘は狂歌師の蜀山人が図案を作った異形の鐘で、余りの人気であったことから、幕府から「天下無双とは、お上をおそれぬ慢心である」と横槍が入り、厳しい詮議の末、結局雷電は江戸払い(江戸市中には住めない罰)にされてしまう。世にいう赤坂報土寺梵鐘事件である。

<咲柳山 報土寺 雷電梵鐘の図>

雷電為右衛門奉納袂鐘(たもとがね)

袂鐘

 文化11年(1814年)雷電が生家の菩提寺 養蓮寺ようれんじ(現小諸市)に奉納した喚鐘。「たもとに入れて江戸から運んできた」と伝わったことから「袂鐘」の名がある。
 の間の部分に龍、下帯の部分は土俵となっている。
 鐘には蜀山人の詩が刻まれ、後の昭和32年に鐘を収めた桐箱には作家尾崎士郎の箱書がある。

雷電は酒にも強かった

陳景山との飲み比べ

雷電は酒にも強かったことが「諸国相撲控帳」の記述からわかる。長崎巡業において、中国の学者で「李白の再来」と噂された酒豪「陳景山」と飲酒対決を行った。1斗(18リットル)飲んで陳がダウンした後、雷電はさらに1斗を飲み干し、高下駄をつっかけて宿へ帰ったという。陳は雷電の酒豪ぶりに脱帽し、自筆の絵や書を贈ったと伝えられている。

諸国相撲控帳って?
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