トップページ > Webギャラリー > 初土俵〜現役引退

初土俵〜現役引退

寛政2年(1790)
23歳

江戸本場所西の関脇で初土俵
8勝2預りで鮮烈なデビューを飾る。横綱小野川を投げるも「預り」となった。

江戸相撲と現在の大相撲の違い

・年に2場所、回向院で開催。他は地方巡業。
・力士は各大名のお抱えだったため、藩の都合が優先することもあった。(欠場など)
・大関、関脇、小結、前頭は番付に記されたが、横綱は地位ではなく強豪力士の称号だった。
・一場所は10日間。預り、無勝負もあった。
<優勝という制度はなく、天候(露天のため)や将軍の御成などで、しばしば中断した。>
・西方が上位だった。(京の都に近いことから)※現在は東方が上位

両国回向院

両国回向院  本堂の右側に見えるよしず張りの巨大な建物が相撲小屋で、江戸の人々は櫓から打ち鳴らされる櫓太鼓の音によって、勧進相撲の始まりを知ることができた。相撲小屋は3階建てになっており、はしこで上り下りしていた。また弁当や酒も売られていた。
 江戸相撲は当初、深川の富岡八幡宮で開催されていたが、1785年(天明5)から回向院に移り、その後しばらくたって、境内に設けられたよしず張りの仮設小屋で毎年春秋の2回開催され、1909年(明治42)、境内の北側に国技館ができるまで、江戸相撲の常設場所となった。
<歌川広重 東都江戸名所両国回向院境内全図 1842年(天保13) すみだ郷土文化資料館蔵>

寛政4年(1792)
25歳頃

臼井(現千葉県佐倉市)の甘酒茶屋「天狗さま」の娘おはんを見初め、商家の養女 八重と改名して結婚。
同い年の八重は、 天下の大関雷電の支えとなって終生尽したという。雷電をとりまく人々

寛政7年(1795)
28歳

西方大関に昇進。5勝無敗の成績。
以後16年間27場所大関を保持し続け、文化8年、45歳まで現役で活躍した。

今なお破られぬ歴代最高記録!

約21年間の土俵人生は35場所、総取組数285。
254勝10敗、引き分け2、預り14、無勝負5
優勝相当成績は 35場所中28回、勝率は96.2%
この記録は今なお破られぬ歴代最高記録!

歴代の強豪横綱と比べてみると!

豪快でスピーディな取り口から「ウルフ」と呼ばれた千代の富士の勝率は76.1%。
一方雷電は優勝相当成績回数28回で全勝が7回。
2場所制の時代にこれを上回るものは現れず、6場所制になっても、回数を上回ったのは白鵬(37回 平成28年末現在)・大鵬(32回)・千代の富士(31回)のみ。
また、全勝記録7回を超えた力士は6場所制になっても白鵬(12回)、大鵬と双葉山(8回)のみ。
さらに雷電の9連覇は現在でも史上1位。朝青龍・白鵬(7連勝)も届かなかった。

寛政9年(1797)
30歳

信州大石村に帰郷。
御嶽堂村(現上田市御嶽堂)宝蔵寺に南錬なんりょう一片を寄進。南錬とは、二朱の銀貨。崩壊した石垣修復の為に寄進した。

寛政10年(1798)
31歳

父半右衛門没す。(59歳)雷電をとりまく人々

寛政12年(1800)
33歳

北陸~善光寺~坂城と興行し、大石村に立寄る。その際父の法要を営み生家建築費50両、祝宴費用の28両を払ったと伝えられている。雷電の生家

文化5年(1808)
41歳

8月12日、海野宿白鳥神社祭礼相撲に対し、一札免許いっさつめんきょ を与え、四本柱と太鼓櫓を用いることを許す。信州海野宿 白鳥神社

文化8年(1811)
45歳

この年引退
松江藩相撲頭取に任ぜられた。(頭取とは今の親方のような役職)
巡業では引退後も雷電が相撲を取った。

一覧へ戻る
ページの上部へ戻る