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雷電をとりまく人々

両親

小諸領大石村(東御市)に父半右衛門、母けんの長男として出生。 幼名は太郎吉。

田中宿薬師堂の仁王尊

田中宿薬師堂の仁王尊 半右衛門(雷電の父)が小柄だったので、母は田中宿の仁王尊に「大きな男の子をお授けください」と祈って生まれたのが雷電だった・・・とか。
向かって左側の像は、雷電のお母さんが、子どもが強くたくましく育つようにと願い、右側の像は、雷電自身が大関に昇進した翌年の1796年に、雷電の母が奉納したものと伝えられている。

異形の墓

異形の墓 雷電は、こよなく酒を愛した父半右衛門のため異形の墓を建てた。台座には枡、本体は酒樽に盃を伏せた独特の形状である。

生涯の伴侶

雷電の妻・八重 臼井(現千葉県佐倉市)の甘酒茶屋「天狗さま」の娘おはんを見初め、商家の養女 八重と改名して結婚。同い年の八重は、 天下の大関雷電の支えとなって終生尽したという。

松江藩主
「不昧公」

雷電をお抱え力士として取り立てたのは、松江藩七代藩主 松平治郷はるさと公であった。

相撲を愛する殿様 松平治郷(不昧)

松平治郷(不昧)公 親しみを込め「ふまいこう」と呼ばれた松江藩七代藩主 松平治郷公。茶人大名として知られた当代一流の文化人でもあった。武芸にも堪能で藩御流儀の不伝流居合を極め、また、多くの力士を士分で抱えた大の相撲好きだった。現存する松江城の絵図にも土俵が描かれている。当時、有力大名がスポンサーとなったお抱え力士の活躍は相撲人気を高めるとともに、藩の威信を誇示する広告塔だった。風流な御殿様「不昧公」あっての雲州力士、雷電だったのだ。

雷電所用の化粧まわし

雷電所用の化粧まわし 松平治郷公(不昧公)より拝領した雷電所用の化粧まわし。えんじ色の地に金糸で稲妻模様が刺しゅうされている。(東御市大石区管理・『道の駅 雷電くるみの里』にレプリカを展示)

道の駅 雷電くるみの里
ライバル

雷電に2勝の大金星「花頂山」

花頂山 わずか10敗の雷電に、唯一、2回勝利したのが花頂山(常山・後の市野上)であった。雷電との戦績2勝3敗1預の、まさに天敵。寛政3年(1791)〜10年(1798)まで、この2敗に阻まれて連勝は19・43・44に分断した。花頂山に負けていなければ106連勝の大記録となったかもしれない。
<巨漢の雷電を阻む「花頂山」(背中)>

公式戦初黒星の相手「陣幕」

陣幕 陣幕は雷電のライバルの一人である。将軍家斉の上覧相撲で、雷電と陣幕は、関脇戦として組まれ、不覚にも雷電は陣幕の張り手につぐのど輪で一気に押し出されてしまい、公式戦での初黒星となった。
 この時、「陣幕に張りつめられし御上覧 今年ゃ負けても来年(雷電)は勝つ」と、自分の四股名と来年をかけた狂歌を詠んだと伝えられる。
 番付初登場からわずか半年あまりの雷電の強豪ぶリは広く知れ渡っていただけに、この狂歌からは、雷電にとっても悔しい負けであったことが推察される。同年11月場所で陣幕と再び対戦で勝利、その後も陣幕に負けることはなかった。
<勝川春英 雷電、陣幕取組図 1791〜1789年(寛政3〜10)相撲博物館蔵>

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