生誕150年・明治150年

美しき明治のみづゑ 丸山晩霞展

美しき明治のみづゑ 丸山晩霞展

期間 2018年10月13日(土)〜11月25日(日)/会場 長野県東御市 丸山晩霞記念館

主催:丸山晩霞記念館、東御市
共催:信濃毎日新聞社

背景画像:「白馬神苑」

開催趣旨

生誕150年を迎えた丸山晩霞は、生前「自然に対して食い下がるという求心的で熱烈な精進と気魂」を持ち、山岳や田園を題材に数々の秀作を生み出した。
そのみずみずしさと透明感は、今もなお日本人の心底に響くハーモニーであり、現代社会においては、ひととき桃源郷を見るかのようである。
明治中期に、無名の画学生であった丸山晩霞が、青雲の志と大いなる夢を胸に渡米、渡欧し、高い評価を得て大成功した冒険と浪漫のストーリー、 これを契機に、画壇の中心的役割を果たし、後進の指導や水彩文化を発展・普及させるなど、日本水彩画の歴史で重要な役割を果たしたことは、決して忘れられてはならない。
本展は、当館所蔵品に加え、調査により明らかになった個人所蔵作品(初公開含む)、さらに盟友・吉田博、三宅克己も交え、 明治期のみずみずしく輝く水彩画の魅力を通じて、生誕150年を迎えた丸山晩霞の本来の画業を広く伝え、一層の再評価を世に問うものである。

丸山晩霞 生誕150年

1867年(慶応3年)、現在の東御市祢津に生まれ、名を健作(健策とも)といいました。家業は養蚕業と蚕種製造業を営む農家で、父は蚕種貿易商として横浜に滞在することが多く、 帰郷の際には土産として持ち帰った錦絵などを見ながら育ったことが、絵画を志す始まりであったとされています。
1888年彰技堂に入門、明治美術会展に出品。1895年、群馬県沼田付近で、写生をしている吉田博に出会い、吉田の描いていた水彩画に感銘を受ける。 1898年、吉田博とともに「日本アルプス写生旅行」を敢行、飛騨方面まで巡る。おそらくは、これが日本初の日本アルプスでの写生と思われる。
1899年、三宅克己と交友。三宅の勧めから、1900年渡米。同行した、鹿子木孟郎、満谷国四郎、河合新蔵と、先発の吉田博、中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催。 大成功を収め、プロビデンス、ワシントンでも6人展を開催した。その後、鹿子木、満谷、河合とともにヨーロッパ巡遊、シンガポール、香港経由で1901年に帰国。
1902年、明治美術会改め「太平洋画会」創立に加わる。小諸義塾の水彩画教師となり島崎藤村と交友。1907年大下藤次郎らと日本水彩画会研究所を設立。 1907年文展に「白馬の神苑」を出品。1908年、日本山岳会会員。1909年、絹本に水彩で描いた日本画調の作品を「和装水彩」として発表。 1911-1912年再びヨーロッパに渡る。この滞欧中に大下藤次郎が急逝する。

1913年、日本水彩画会創立、評議員となる。水彩画は庶民の間に急速に広まり、日本各地を講習会や指導で訪れた。1923年、関東大震災の被災者救済を目的に、中国、東南アジア、インドを旅行。内弟子の関晴風と、小諸・玄光院で慰霊のため「釈迦八相」を制作。
1936年日本山岳画協会創立に参加。祢津村にアトリエ「羽衣荘」を新築。太平洋画会、日本水彩画会、日本山岳画協会には毎年出品を続けた。
1942年没、享年76。内弟子の小山周次が中心となって遺稿集「水彩画家丸山晩霞」が日本水彩画会から刊行された。晩年、画風に関しては不評だった丸山晩霞だが、この遺稿集に寄稿した顔ぶれからも、丸山晩霞の存在が当時の日本美術界において大きかったことがわかる。丸山晩霞の墓は、生家の裏山にあり、墓石には「水彩画家丸山晩霞 ここに眠る」とある。アトリエの「羽衣荘」には藤村の碑文がある。
丸山晩霞は世界各国から持ち帰った石楠花を育てるなど、高山植物に関しては博学であった。また俳句にたしなみ選者でもあった。自らを田園画家と称し、郷里の風景を愛した。地元祢津村における丸山晩霞には、文化人としての存在もあり、地域振興や活性化にも一役を果たしている。

主な展示作品

高原の秋草

  • 1896年頃
高原の秋草
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この作品が制作された前年の1895年に、丸山晩霞は群馬県利根川沿いで吉田博と出会った。 丸山晩霞自身が東京で学んだものとは違い、発色も表現方法も異なる吉田の水彩画にすっかり魅了されてしまったのである。 この晩は、吉田博と大いに語り明かしたという。
この絵はサインもなく、吉田博が旧蔵していたことから、「その年の夏吉田氏が私の郷里にやってきて、高原に秋草の花の咲いているところを共に写生した」という時に描かれたものかと推察している。

春の村

  • 1900年以前
春の村
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丸山晩霞の故郷である祢津村(現東御市)の風景と思われる。 1899年(明治30)に丸山晩霞の作品を初めて見た三宅克己が「その緻密な写生は率直にしかも深刻に自然を描写されたもので、実にその自然に対する真剣の態度は、一筆一筆の上に表れているので、 私は一度見たばかりで、断然感服してしまったのであった。」と激賞し、ついには信州小諸に移り住み、丸山晩霞とキャンバスを並べて風景を描く日々を送った。
この頃描かれた風景画の多くは、1900年に渡米した際に、現地で販売されてしまったため、国内に現存する作品はきわめて貴重である。

白馬神苑

  • 1907年
  • 個人蔵
白馬神苑
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丸山晩霞といえば、山岳と高山植物がテーマというイメージが大きい。この作品は、白馬大雪渓を背景にたくさんの高山植物が咲く様を重ねたもの。 丸山晩霞特有の柔らかい筆使いで独特の世界を表現した、丸山晩霞の代表作の1つといえる。

小笠原風景

  • 1908年
  • 個人蔵
小笠原風景
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水彩画が大ブームとなり、指導者として多忙を極める中での小笠原への写生旅行は、 植物にも博学だった丸山晩霞が、長年憧れていたもので、亜熱帯の森を夢中で描く様子が目に浮かぶ。

盛夏

  • 1909年
盛夏
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取材地は現小諸市である。 「自然に食い下がるような」制作姿勢が生み出す精緻な描写によって、川面の風にのって野焼きの煙の匂いまで感じられる。 小諸大橋の上に立てば今でも絵と同じ風景が広がっている。

アンバレー村の初夏

  • 1912年
アンバレー村の初夏
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盟友が再渡欧を果たす中で、丸山晩霞もようやく1911年からヨーロッパに写生旅行に出かけることができた。 この第二次洋行では、イギリスの田園風景、ヨーロッパアルプスなどを積極的に描いた。 この洋行から丸山晩霞の画風は精緻な筆使いが弱まり、色面による表現が際立つようになる。この渡欧時に描かれた作品はおよそ250点にものぼる。

特別展示作品の一部

セーヌ河畔

  • 三宅克己
  • 1902年
セーヌ河畔
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三宅克己も丸山晩霞に大きな影響を与えた画家である。本展の3人の中では最も早く渡米、渡欧した。 丸山晩霞にとって三宅克己の作品は、まだ見ぬ海外風景がこれまでにない色彩で描かれていたものとして、海外への思いをより強くさせるに十分であった。 本展では三宅克己作品10点を展示予定。

南仏カーニュの教会堂

  • 三宅克己
  • 明治中期
南仏カーニュの教会堂

月見草と浴衣の女

  • 吉田 博
  • 1907年
  • 個人蔵
月見草と浴衣の女
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丸山晩霞に大きな影響を与えた吉田博は、「絵の鬼」とも異名を持ち、その画才はまさに天才といってよい。 吉田の水彩画は、風景を忠実に描き、特に霧や雨、水の表現を得意とする。本展では吉田の明治期の水彩画10点を展示予定。

ポンシデレオン旅館の中庭

  • 吉田博
  • 1906年
  • 個人蔵
ポンシデレオン旅館の中庭

会場アクセス・開催概要

丸山晩霞記念館

〒389-0515 長野県東御市常田505-1 東御市文化会館内

電話 0268-62-3700
FAX 0268-62-3262
会期 平成30年10月13日(土)〜11月25日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時 (会期中は無休)
入館料 一般
(高校生以上)
個人 500円
団体(15名以上) 400円
詳しいアクセス情報を見る
東御市文化会館 サンテラスホールのページへ

インフォメーション

記念ギャラリートーク

明治期の東御市を描いた水彩画を解説しながら、当時の様子などを解説します。
「晩霞先生」の大活躍の紹介もあり、展示作品の見所を、クイズを交えて楽しく、深く解説して紹介します。

タイトル水彩画で見る明治の東御市と晩霞の偉業

日時10月21日(日) 14:00〜

参加費無料

申込み不要

祢津名勝俳句ウォーク

俳句は5・7・5の絵画!明治の面影と、ワイナリーなど現代が混在する丸山晩霞の生誕の地・祢津地区を歩いて、その風情を俳句にしましょう!

日時10月28日(日) 9:00〜15:00 ※荒天中止

持ち物昼食

参加費500円

申込み要事前申込み 申込み先:丸山晩霞記念館

指導窪田英治先生

協力祢津地域づくりの会

ギャラリートーク

参加者の皆さんとの対話を交え、当館学芸員が楽しくご案内します。

日時毎週土曜 11:00〜、14:00〜

みなさんの晩霞作品拝見いたします!

ご所蔵の作品を丸山晩霞記念館までお持ちください。制作年代の推定や、保存方法をアドバイスいたします。

申込み事前にお電話ください

費用無料

企画展ご案内ちらし(PDF)
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