主催:東御市、東御市教育委員会、丸山晩霞記念館
協力:公益財団法人日本相撲協会相撲博物館
後援:SBC信越放送、NHK長野放送局、NBS長野放送、TSBテレビ信州、abn長野朝日放送
信濃毎日新聞社、中日新聞社、読売新聞長野支局、朝日新聞長野総局、産経新聞社長野支局、毎日新聞長野支局、週刊うえだ、東信ジャーナル、信州民報、週刊さくだいら(順不同・敬称略)
今、大相撲が大人気です。「国技」として厳格なしきたりにのっとり行われる相撲の歴史をさかのぼると、それは日本神話にまでたどり着きます。
平安時代には、宮中行事として「相撲節会」が行われていましたが、鎌倉時代以降は武士の格闘技としての色合いが強くなりました。戦国武将たちも、全国の力自慢を集めて上覧相撲をたびたび開催し、その中から腕っ節の強い者を召し抱 えました。また、相撲はその土地の風習やしきたりの中で、辻相撲や野相撲として日本各地で数多く行われてきました。
江戸時代になると、相撲は神社仏閣の修理を目的にした「勧進相撲」として行われるようになりましたが、次第にそれも形骸化され、現在の大相撲の礎ができあがってきました。
そこに突如として現れたのが、スーパースター雷電為右衛門です。現役時代の勝率は、なんと 9 割 6 分 2 厘。これは現在まで誰も超えることのできない大記録です。江戸相撲の黄金期は雷電がつくったのです。雷電をモデルとした浮世絵が数々制作されたことが、その人気の度合を物語っています。
本展では、相撲の歴史を概観する資料とともに、雷電が活躍し、大人気となった江戸大相撲を、貴重な浮世絵や資料などで紹介します。
そして、雷電が生きた江戸時代とはいったいどんな時代であり、庶民はどのような暮らしぶりだったのでしょうか。浮世絵を見るとそれがおもしろく分かってきます。本展では名絵師が描いた浮世絵を多数展示し、江戸時代の文化、風俗や娯楽を紹介します。
※作品の一部を入れ替えます。
江戸文化や庶民の娯楽に関連する作品の一部は、8 月 28 日(月)までの展示となり、入替をいたします。
歴代横綱人気投票と御嶽海コーナー
も設置します、お楽しみに!
初代横綱とされる明石志賀之助から、72 代稀勢の里までずらり勢揃い。御嶽海のパネルや紹介もあります。
回向院の本堂の右側に見えるよしず張りの巨大な建物が相撲小屋で、表門の外に立てられた相撲櫓から打ち鳴らされる櫓太鼓の音によって、江戸の人々は勧進相撲の始まりを知ることができた。
回向院は、1657年(明暦3)に起きた「明暦の大火」で亡くなった人々を供養するために建立された寺院だが、多くの江戸の人々にとって回向院を訪れる目的の一つが、勧進相撲を見ることであった。
江戸相撲といえば、深川の富岡八幡宮であったが、1785年(天明5)からは回向院で開催されることとなった。1833年(天保4)からは、境内に設けられたよしず張りの仮設小屋で毎年春秋の2回開催され、江戸相撲の常設場所となった。この頃から春と秋は江戸、夏は京都、秋は大坂という、三都において年に4回勧進相撲が開催されるというサイクルが確定した。
1909年(明治42)、境内の北側に国技館(大正時代に焼失)が竣工されるまで、江戸相撲は回向院で行われた。
江戸の勧進相撲で賑わった両国界隈の活況を伝える作品で、本作はJR両国駅構内にも大型パネル化されている。
びっしりと人で埋め尽くされた中央の橋は、江戸時代初期の1660年頃に初めて建設され、現在に至るまで何度も架けなおされている両国橋。花火の上がる夜の隅田川の光景が西側上空から描かれており、極端に歪曲した川の表現と、誇張された橋の上や川面の混雑振りが印象的で、圧倒的なパワーを感じさせる作品である。
様々な絵師が雷電を描いていて、当時の人気を伺い知ることができる。実際の雷電に最も近いのは、勝川春亭のものと思われる。唯一雷電の体格を推し量ることができる資料は手形である。指の長さは足の長さに、手のひらの大きさは胴体の大きさに比例するという。強豪力士のそれは、縦横の均整がとれ、技能力士のそれは小指が発達しているという具合である。雷電の手形は、均整がとれ肉付きもよく、骨格も頑丈な印象を受ける。身長192㎝、体重169㎏というのも、多少のちがいであるが、いろいろな説がある。
余談であるが、雷電が横綱になれなかった原因にも諸説はあるが、どれも確証はなく、真実は分からない。
様々な絵師が雷電を描いていて、当時の人気を伺い知ることができる。実際の雷電に最も近いのは、勝川春亭のものと思われる。唯一雷電の体格を推し量ることができる資料は手形である。指の長さは足の長さに、手のひらの大きさは胴体の大きさに比例するという。強豪力士のそれは、縦横の均整がとれ、技能力士のそれは小指が発達しているという具合である。雷電の手形は、均整がとれ肉付きもよく、骨格も頑丈な印象を受ける。身長192㎝、体重169㎏というのも、多少のちがいであるが、いろいろな説がある。
余談であるが、雷電が横綱になれなかった原因にも諸説はあるが、どれも確証はなく、真実は分からない。
本図は、回向院の相撲小屋の内部を描いた作品である。はしごで上り下りした3階建ての仮設会場であったことが分かる。画面中央には土俵が描かれ、屋根を四本の柱「四本柱」で支えている。この図では朱色一色であるが、1858年(安政5)の春場所から、青龍(青=春=東)、朱雀(赤=夏=南)、白虎(白=秋=西)、玄武(黒=冬=北)の四神を表した色がつけられた。この四本柱は、1952年(昭和27)に取り外され、現在の吊り屋根になったが、四隅にある房の色がこの四本柱の色を継承している。
客席をよく見ると、寿司らしき食べ物を売る人や、要人がみるためのいまでいうところの天覧席なども見える。
一番左の上で横綱を締めているのは、谷風と思われ、雷電為右衛門は土俵上にいるのがわかる。
平安時代から鎌倉時代、つまり貴族社会から武家社会に移ると、相撲も儀式から武術の色を濃くしていく。戦場で徒手空拳ともなれば、最後は自分の身体そのものを武器にするほかなく、生命がけの組み打ちとなり、その技術を備えているかどうかが「首」の分かれ目となる。戦国期の英雄織田信長も相撲を好み、たびたび相撲人を集めて上覧し、相撲技に優れた強者を家来に取り立てているが、徳川期に至っても、大名達は力量傑出した者を競って召し抱えるようになる。
信長のほかにも、源頼朝、北条時頼、豊臣秀吉、伊達政宗などの武将が上覧相撲を行っている。
農民出身の雷電為右衛門は、松江藩抱え力士となり帯刀を許された。当時農民から士分になるのは、並大抵のことではなく、農村の多くの力自慢たちが相撲をもって身を立てることを夢見たに違いない。本展では道中差しと脇差しを展示する。
力士の酒盛りと聞けば料理や酒が山のように並んでいるかとイメージするが、この図には料理が火鉢の上と横にある程度で、むしろ質素な印象を受ける。当時はこの程度のものであったのではないかという推測も立つが、雨天時の興行は中止だったため、この図は雨天時の関取たちの素顔と過ごし方の様子が描かれたものではないだろうか。
〒389-0515 長野県東御市常田505-1 東御市文化会館内
電話 | 0268-62-3700 |
---|---|
FAX | 0268-62-3262 |
会期 | 2017年7月29日(土)〜9月24日(日) |
開館時間 | 午前9時〜午後5時 (会期中は無休) |
入館料 | 一般 (高校生以上) |
個人 200円 |
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団体(15名以上) 150円 | ||
中学生以下 | 無料 |
日時7月29日(土)14:00
ゲスト山田順子氏(時代考証家)、土屋喜敬氏(相撲博物館学芸員)
展示作品の見所を、クイズを交えて楽しく、深く解説して紹介します。
日時毎週土曜 11:00、14:00 ※8月19日(土)除く
参加者の皆さんとの対話を交え、当館学芸員が楽しくご案内します。
展覧会図録、書籍、大相撲グッズなど販売します。
会場を探検しながら作品をよく見てみよう。なぞなぞもあるよ。