現役引退〜没後
- 文政8年(1825)
59歳没 -
晩年は妻八重の生地、下総国臼井(現千葉県佐倉市)で永く暮らし、59歳で亡くなったといわれる。遺骨は、江戸 赤坂三分坂の松江藩ゆかりの報土寺に葬られ、遺髪は、大石村、松江市西光寺に分葬されたと伝わる。
高い教養を持っていた文武両道の力士「雷電」
雷電は現役中、江戸にいた時も、巡業で地方を回っていた時も、「雷電日記」ともいわれる「諸国相撲控帳しょこくすもうひかえちょう」を書き残した。
また引退して松江藩の相撲頭取になってからは、自分の仕事の内容などを「萬御用覚帳よろずごようおぼえちょう」に記している。これは力士の本場所以外での様子や藩が力士を抱える経緯などがわかるだけでなく、当時の江戸の風俗を知る貴重な資料となっている。各地にのこる雷電の墓
赤坂・報土寺の墓
佐倉市・妙覚寺の墓
東御市の墓
松江にも建てられた「雷電の墓と碑」
松江城の西にある「月照寺」は松平不昧公の墓所がある歴代松江藩主菩提寺。その名刹に雷電の手形を彫った顕彰碑がある。小説「雷電」著者の尾崎士郎による撰文に「雷電をしてその存在を高からしめたものは松平不昧公であり、この景勝豊かなる士地に雷電碑の立つことは天下の喜びであろう。昭和31年4月下浣 尾崎士郎しるす」とある。
そして、松江市 西光寺にある関家の墓。雷電の跡目が絶えるのを惜しんだ藩主 松平斉貴公(不昧公の孫)の命で、雲州力士の朝風を養嗣子(後継者)として松江での関家を興した。その菩提寺にある雷電と朝風の墓。雷電の遺髪を埋めたと伝わる。月照寺・雷電の碑
西光寺・雷電の墓