1767(明和4) |
信濃国小県郡ちいさがたぐん大石村(現東御市滋野とうみししげの)に生まれる。本名関太郎吉 |
1781(天明元) |
長瀬村(現上田市長瀬)の上原源五右衛門に引き取られ、相撲修業のほか読み書きや寺の住職について修行を行う |
1783(天明3) |
浅間山の大噴火で大飢饉が発生。江戸相撲の浦風部屋が飢饉の中、長瀬村に到着。ここで本格的な相撲の稽古を行った。 |
1784(天明4) |
海野宿うんのじゅく白鳥神社しらとりじんじゃ(現東御市本海野)の相撲興行で、浦風部屋に入門。後の横綱・谷風の預かり弟子となる。 |
1788(天明8) |
雲州松江藩の抱え力士となり、雷電を四股名とする |
1790(寛政2) |
江戸本場所の番付に西関脇として初登場。8勝2預かりで優勝相当成績を収める(当時は優勝制度がなかった) |
1792(寛政4) |
臼井(現千葉県佐倉市)の甘酒茶屋の娘おはんと結婚。おはんは八重と改名 |
1795(寛政7) |
大関に昇進。以後16年間27場所大関を保持し、1811年(文化8)まで現役 |
1800(寛政12) |
故郷大石村に立ち寄る。生家の建築費と祝宴費を支払ったと云われる |
1808(文化5) |
海野宿白鳥神社祭礼相撲に対し、一札免許いっさつめんきょを与え、四本柱しほんばしらと太鼓櫓たいこやぐらの使用許可を出す |
1811(文化8) |
現役引退。松江藩相撲頭取に任ぜられる(引退後も巡業では相撲をとった) |
1814(文化11) |
松江藩の江戸菩提寺である赤坂・報土寺ほうどじが焼失。梵鐘の寄進を申し出る |
1815(文化12) |
関家の菩提寺である小諸・養蓮寺ようれんじに「袂鐘」たもとがねを奉納 |
1818(文政元) |
「諸国相撲控帳」しょこくすもうひかえちょうを記す |
1819(文政2) |
「万御用覚帳」よろずごようおぼえちょうを記す |
1825(文政8) |
雷電没。遺骨は赤坂・報土寺に葬られる。遺髪が生地大石村と松江の西光寺さいこうじに分葬される。雷電と妻・八重、娘の墓は佐倉市妙覚寺みょうかくじにある |
2017(平成29) |
生誕250周年。生地東御市で様々なイベントや展覧会が開催されます |