白鳥神社

白鳥神社

海野一族・真田家の守護神「白鳥神社」(北国街道 海野宿)

 「海野宿」の位置する本海野の地は、戦国の名将・真田氏の祖とされる滋野一族・海野氏発祥の地であり、平安から鎌倉、戦国時代までの永きにわたりその本領でした。真田氏も海野氏の継承者であることを誇りとしました。天正十一年 (一五八三) 、真田昌幸は上田城築城の際、先祖の地である海野郷の住民を呼び寄せ、城下、大手の門前に海野町を築きました。ゆえに「もと・うんの」本海野となりました。

 

 海野宿の産土神でもある白鳥神社は、海野氏、真田氏の氏神として祀られた、日本武尊の伝説を縁起とする歴史ある神社です。日本武尊と海野氏、真田氏の祖とされる貞保親王、善淵王を祭神に白鳥明神となし、真田家からも代々、篤い信仰をうけてきました。その霊験が松代藩歴史書・真田御武功記や伝承に語られています。

 

 天文十年 (一五四一) 、武田信虎が海野平を攻め海野一族が滅亡に追い込まれた時のこと、死を覚悟した真田幸隆 (白鳥神社に伝わる系図には海野棟綱の孫とある) の眼前に女神があらわれ 「この鉾を持って出よ、末はめでたかるべし、我は白鳥明神のつかわしなり」と告げました。鉾を手渡すと女神は消えてしまいました。これこそは白鳥明神の霊験であると、幸隆は一党を集めて円陣を組み敵陣の真只中へ中央突破を敢行、敵勢はその勢いに道を開きました。戦場を脱出した後、幸隆は武田信玄に仕え家を再興しました。

 

 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原後の戦後処理として、父・昌幸の所領と家督を真田信之が相続しましたが、昌幸と幸村は十二月十三日に九度山へと配流。その二週間後の十二月二十六日付で白鳥神社へ信之による社領安堵の文書が出されています。上田領主となった信之の統治を伝える最も古い史料で、真田家の命運と先祖代々の所領を一手に担うこととなり、まずは一族の守護神である白鳥神社を崇めたものといえます。 元和八年(一六二二)、上田領から松代へ移封となった時のこと、旅立つ信之の駕籠の上に白い鳥が舞い降り、共に移りたいと願いました。松代に移った直後に光る物体が東方から飛来し白鳥明神の鎮座する場所を告げました。寛永元年 (一六二四)、信之は松代舞鶴山に白鳥神社を分祀、のちに藩祖として共に祀られ真田家は末代へと残りました。

 

 海野宿に残した白鳥神社も大切に崇敬され、弘化三年(一八四六) には松代八代藩主真田幸貴より永代十石が寄進され、大正時代にも真田伯爵家より銀二万疋が共進されています。

 天正十三年(一五八五)、第一次上田合戦の布陣を伝える古地図には、海野宿の南に十八歳 真田佐衛門(佐衛門佐)と記され、海野古城付近に幸村が詰め、千曲川の対岸、八重原台地の徳川軍を睨んだ様子がみてとれます。

 

 

 

名称 白鳥神社
住所 〒389-0518 長野県東御市本海野1116
TEL 0268-62-1949
URL http://isawadai.com/shiratori/